どうも
最近ずっと誤謬という言葉について考えています
正確に言うと、誤謬と呼ぶべきかどうかすら分からないある種の間違いについてです
論理学の世界において、誤謬は排除されるべき誤りとして扱われますが、実際の人の言語活動はこうした誤謬無しには成立しない部分がかなりあるように思う
例えば頭の中に靄がかかるみたいな表現は、脳内に本当に気象現象としての霧が発生しているわけがないので、客観的な事実としては100%誤りですけど、思考の不鮮明さをそのままのニュアンスで記述できる言葉なんてないので、この誤りが、思考の不鮮明さを的確に表現できる最適解の一つになっているわけです
ここでそれは誤謬なんかじゃなくて単なる比喩だろアホと思われるかもしれませんが、あえてここでは客観的な事実とのズレを伴いながら意思の伝達を成立させている表現全般を広い意味の誤謬として呼んでみたいと思います
話を戻しますが、前述した点から人は誤謬を憎んでいるわけでもなく、むしろそれらを巧みに利用しながら日々会話していますよね
人は比喩を使い、誇張を使い、抽象化を使いますが、決してそれらの表現は事象をありのまま写し取る表現じゃなくて、意図的に歪めたり削ったり置き換えながら、限られた言葉の中に膨大な意味を圧縮している
それなのにもかかわらず、一方では詭弁やミスリードを誤謬として非難するんですよ、酷いダブスタで酷い誤謬ですよね
だとすれば興味深いのは、人が誤謬を排除しているのでも容認しているのでもなく、どの誤謬を許しどの誤謬を許さないという選別を行っているわけです
では、その二つをスッパリ分けている境界線とは一体何なのでしょうか

(1)
まずは、僕個人が考える 許されない誤謬 の典型例から見てみたい、ちょうどこの文章を書いてる今日良いサンプルがあったのでそれを頂戴していただこう
そしてそれは必ずしも明確な虚偽ではない、むしろ僕が違和感を覚えるのは、事実そのものよりも、事実を取り囲んでいたはずの文脈が不自然に削り取られている場合
ある時、とあるディスコードコミュニティで問題行動を繰り返し、何度も追放と復帰を繰り返していた人物が、次のような発言をした
「プール来て泳げるようになりたい人間に対して泳げないなら帰れはさすがにいくらなんでも酷くない」
 ???? とこの発言を目にした時、僕は形容しがたい強い違和感を覚えたが、ただその違和感の正体は単純な嘘のようなものではないのは分かっていた
彼が泳げないなら帰れと言われたと感じていたこと自体は事実かもしれないし、実際それに近い発言が存在した可能性もあったのかもしれない、にもかかわらず、僕はこの比喩に何かすごく不自然なものを感じた
しばらく考えて気付いたのは、この発言が事実を捏造しているのではなく、事実の周辺の要素(言うならば付帯だろうか)を削り取っているということだった
例えば、 過去にその人物が具体的に何をしたのか とか そのコミュニティの本来の目的は何なのか とか 排斥された原因は、本当に泳げないことだったのか とか
こういった情報は完全に消去されたわけではなく、議論の本筋から静かに巧妙に退かされ、周縁に追いやられていたのだ、僕はこれらの現象を一旦付帯の周縁化と呼ぼうと思う
もちろん、文脈の圧縮そのものは悪ではないし、むしろ自然言語は圧縮無しには成立しないし、現に人は膨大な情報を圧縮しながら会話しているし、前口上で触れたような頭の中に靄がかかっているという表現も、物質的事実を周縁化する代わりに、心理的事実を中心化する正しい圧縮と言えるが、しかし全ての圧縮が同じではない
要するに、構造を真っ当に保存する圧縮もあれば、構造そのものを書き換えてしまう圧縮もあるわけで、僕が違和感を覚えるのは後者である
さっきのプールのくだりでは、何が起きたのかを理解するために必要な付帯条件が周縁へ押しやられ、その結果として受け手は特定の解釈へと誘導される、そこでは事実そのものが消えているわけではないが、しかし事実の配置が変えられている、その結果受け手は「この人は理不尽に追い出された」という歪んだ情報だけを認識させられることになる
こういう人は明確な嘘をつくより先に、まず重要な付帯条件を周縁へ追いやり、それでこうしてトリミングされた中心部分だけを見せることで、自分に都合の良い物語を偽装するのだ
もし 許されない誤謬 というものが存在するなら、それは単純な事実との不一致なんかではなく、このような構造の改変に関わっているのかもしれない
だが、ここで新たな疑問が生まれる、人はなぜこの構造の改変に違和感を覚えるのだろうか
そもそも人は、個々の事実を見て世界を理解しているのか、それとも事実同士の関係を見て理解しているのか
もし後者だとすれば、人を欺くということは事実を捏造することではなく、事実同士を結ぶ線を書き換えることなのかもしれない

(2)
前章では、人が事実そのものを改変するよりも先に、その周りの要素を周縁へ追いやることで、自分に都合の良い物語を作り出す一連の動作について考えた
だが、人の言語活動にはもう一つ奇妙な性質がある、人は自分が邪魔だと感じた文脈を削るだけでは満足せず、言葉そのものの意味の領域まで、平気な顔して変形させている
例えば 椅子 という言葉を考えてみよう
切り株を椅子と呼ぶ人はいる、ひっくり返したビールケースを椅子と呼ぶ人もいる、っていうか人が腰掛けられるならそこらへんの岩であっても椅子と呼ばれることがある
しかし逆に、本来の椅子を切り株と呼ぶ人はほとんどいない、どうやらここには奇妙な非対称性が存在するようだ
言葉の意味には境界がある、それは当たり前だと思うが、しかしその境界は辞書の様に固定されているわけではない
むしろ状況や文脈に応じて、ある程度伸びたり縮んだりしているように見える、例えるならゴム膜のようなものだと考えている
一章のプールのくだりを書いた人物が持ち出したプールという比喩も同様で、彼はプールという言葉の輪郭を、本来の意味領域から大きく引き延ばしている
そこではプールは、利用規約や強制的ではない目的を持った公共施設ではなく、 来た人間を無条件に受け入れ、泳げるよう育成しなければならない場所 とかいう意味不明な謎概念へと変形されている
また同じ流れになってしまうが、もちろん言葉の拡張そのものが悪いわけではなく、比喩も抽象化も、意味領域の拡張によって成立している
ただし問題は、その拡張がどこまで許されるのかという点にある、そして僕が最も興味を持っているのはここ
確かに言葉の輪郭は存在していて、人は日常的に それは言い過ぎだ とか その例えは無理がある と判断している、つまり何かしらの限界は存在しているはずなのだ
にもかかわらず、その限界がどこにあるのかを正確に説明できる人は僕が知ってる限りいない
僕はこの限界を、意味の伸縮限界と呼ぼうと思う
さらに厄介なのは、その伸縮限界を完璧に演算するための関数が現状存在しないことで、僕はこれが原因で永遠にAIはクオリアを持つことができないとすら思っている、サムアルトマン早くどうにかしろ
というのもそれもそのはずで、言葉の輪郭の柔らかさは、動的な変数によって常に変化するから
ある文脈では不自然な意味拡張が、別の文脈では当然のように受け入れられることもあるだろうし、平時なら拒絶される比喩が、極限状況ではむしろ最も正確な表現になることさえある
多分自然言語の豊かさは、おそらくこの曖昧さから生まれているのだろうが、しかし同時に、誤解や詭弁もまたこの曖昧さの中から生まれている

(3)
前章の最後で、言葉の意味領域には確実に何らかの境界が存在しているにもかかわらず、人はその境界を規定する関数を知り得ないと書いた
だが、本当に完全な暗闇の中を手探りで歩いていると言えるのだろうか
もしかすると、その境界そのものは分からなくても、境界が従っている地形のようなものは観察できるのかもしれない
意味の伸縮限界は本当に四方八方へ無秩序に伸びるだけなのだろうか?僕はそう思わない
そこには、ある種の傾斜や偏り、言うなれば指向性が存在しているように見える
言語学のプロから見ればすごく乱暴な整理かもしれないが、ここでは概念を大きく二種類に分けて考えてみたい
一つは 何に使うか によって定義される概念、もう一つは どこから来たか によって定義される概念としてみる
これら前者を機能概念、後者を由来概念と呼ぶことにする
例として山の中で足が疲れた時、そこにある切り株を見て、「この切り株を椅子にしよう」と言ったとして、これは自然に成立すると思う
しかし逆に、オフィスにある一般的なワークチェアを見て、「これは切り株だ」とか言うバカはまず存在しないであろう
もしこれが単なる類似性の問題だとするのなら、本来は双方向に成立するはずであろう(AをBと呼べるなら、BもAと呼べるはずだから)
だが実際の言語はそうなっていない、なぜなら椅子は座るという機能によって定義される機能概念だから
その機能さえ満たしていれば、物質の形態や由来を問わず、切り株だろうがビールケースだろうが岩だろうがその領域へ包摂することができる
機能概念というのは外に向かってあらゆる概念を飲み込もうとする、強烈な遠心力を持った言葉
一方で切り株は伐採された木の残骸という由来によって定義される由来概念で、どれだけ椅子として使われていようと、その由来を消し去ることはできない
由来概念というのはどれだけ引き延ばされようとしても、常に自身の過去の中心へと回帰しようとする、頑固な求心力を持った言葉
つまり両者は対称ではないのだ、機能概念は外へ広がろうとし、由来概念は中心へ留まろうとする、この力学的な非対称性が、意味の伸縮が行われる空間に見えない傾斜を生み出している
ここから意味の伸縮が行われる空間というのは、どうやら平坦ではないらしいということが分かる
人は自由に無秩序に言葉を拡張しているようでいて、実際にはその傾斜に沿ってしか移動できない
切り株から椅子へは滑り落ちられるが、椅子から切り株には登る事ができない
意味の伸縮が行われる空間は、このような無数の一方通行の坂道によって形作られている
もし人がこのような傾斜の上で言葉を理解しているのだとすれば、誤謬とは単なる事実誤認ではなく、このような地形そのものを悪用する行為にほかならないと思う



いかがでしたか?良いオチを考えようと思いましたがマジで思いつかないし疲れたのでやめます