2026年9月27日深夜5時半のトンキン大虐殺です.

さて,豊かな社会と貧しい社会の心理的差異は,しばしば”幸福度”という一語で語られますが,この語は少なくとも2つの異なる要素を包含しています.一方は,自身の人生について どの程度満足できているか を評価する要素,もう一方は,自身の生が何か大局的な目標に向かっており,それ自体に意義があると感じられるか という要素によって構成されますが,前者はすなわち生活満足度であるのだから,物質的な充足と共に概ね上昇することが予見されます.しかし,後者は必ずしもそうではなく,貧相な国の貧相な人々の方がむしろ高く報告する傾向にあります.

なぜ充足は満足を高めながら意味を減じうるのでしょうか.

 

生理的欲求や身の安全が満たされない状況下では,活きる事そのものが解決を要する喫緊の課題となります.明日の食糧や住居や安全の必要性は,誰に命ぜられなくとも追求せざるを得ない目的を人に与えます.ここで重要なのは,その目的が外部から自明に与えられ,問い直される余地が存在しないという点です.人は なぜそれらを求めるのか を問うことなく,ただ求めることとなり,云うなれば,この問いの免除こそが,欠乏状況において意味が供給される仕組みの本質であります.

加えて,快楽順応は充足が持続する環境でこそ強く働きますから,欠乏が常態である環境下では満たされるたびに”満たされなさ”が回帰し,順応が完了する間もなく次の課題が出現します.

しかし,少なくとも生存と安全が制度的に保証された文化的国家における社会では,これら外部から与えられる目的が消失します.生存したい・すべきという課題が解決された時,人は初めて”何のために活きるのか”というアンパンマン的問いを免除されない状態に置かれます.充足とは答えの提供であると同時に,欠乏が隠蔽し続けていた問いの露出でもある訳です.

問題は,この隠蔽が露見された時,何が発現するかであり,そもそも欲求は本質的に欠如の意識として成立していることは疑いようのない事実であると思いますが,その充足は欠如の解消,すなわち苦の停止であって,それ自体が積極的な内容を持つわけではありません.この前提を踏まえれば,欠乏が全て解消された主体の基底には,積極的な充足は無く,対象を失った欲求そのものが取り残され,それは倦怠であり,空虚である他なりません.

この観点から見れば,豊かであるはずの現代社会に広まる無気力と,際限のない自己実現への渇望は,正反対の減少でなく,むしろ同一の事態に起因する2つの表れにすぎません.前者は対象を失った欲求が沈滞した姿であり,後者は失われた外部の目的を自力で作り出そうとする,ある種の防衛反応であり,過剰な試みにすぎません.いずれも幸福追求において敗退した結果とは言えず,むしろ幸福追求の条件を満たし終えたことによって,人間が自らの基底に直面した結果なのです.

欠乏を取り除くことは疑いなく善意の営みなのでしょうが,それは苦を取り除くと同時に苦が担っていた意味の供給という機構をも排斥し得る行動となります.永らく目隠しをされていた人間に対して,善意でそれを取り除いた結果,その人間は不意に光に晒されて眼球を焼かれてしまうように,充足は解放であると同時に暴行的な側面も兼ね備えることとなります.

 

眠気が限界なので,続きは後日気が向いたら執筆します,さようなら.